サマルトリアへの道

サマルトリアの王子のように生きていく。

階層の固定化の一因とは

昨年末のエントリの続き。


有り難きこと。(駄文注意) - サマルトリアへの道

 
Ozzy-ZOWの出自が底辺でありながら、現在の本邦に於いては
 
「ギリ中間層」
 
と言えなくもない位置をキープできている理由は、Ozzy-ZOWの父母の教育、あるいは彼等の生き様の影響によるものではないかという推察について。
 
Ozzy-ZOWの父母がどんな人間であったかは、前回のエントリを参照頂くとして、其れを踏まえた上でお話させて頂く。
 
「幸福」の正体
 
幸福とは何であるか?
人それぞれその定義はあろうが、共通するただ一つの要素がある、とOzzy-ZOWは考える
それは
 
「自分が幸福である」
 
と、自分自身が認識していることである。
意識しているか意識下かの違いはあろうが、自分の境遇を否定的に感じている人で、自分を「幸福だ」と言っている人間に、少なくともOzzy-ZOWは会ったことがない。
 
幸福とは詰まるところ、自らが自分自身の心身の感覚として「幸福である」と感じることが出来ている状態である。極めてパーソナルかつ感覚的な代物であり、外的な条件や金品等々は、あくまでも幸福感を得る為の要素でしかない、と言える。
あくまで、「自分の感覚」こそが「幸福」の主たる要件であるとOzzy-ZOWは考える。
不幸なミリオネアも幸福なホームレスも存在し得るのがこの世界だ。
更に突き詰めるならば、それは
 
「自己を肯定できるか否か」
 
ということであり、Ozzy-ZOWは、自らの定めるこの基準に於いて、自分を「幸せだ」と感じる。
 
Ozzy-ZOWも、ナチュラルボーンにそのような肯定感を持てるようになった訳ではない。
それに、未だにその肯定感を手放してしまいそうになる瞬間が、ない訳でもない。
然し、概ね平穏かつ安定して幸福感を維持できているのは、「自己肯定感」を補強・修復してくれる環境に恵まれていることに尽きる。
Ozzy-ZOWは、単騎では実に脆弱極まる駒である。
一応は社会の歯車の体をなしてはいるが、一昔前の中華製品並の低品質かつ雑な仕上げを誇る三級品であるし、出来ることなら可能な限り賃労働に従事する時間を短くしたいと考える不届きな歯車である。
安定稼働の為により多くのメンタルパワーを必要とするし、逆境にすこぶる弱い。
Ozzy-ZOWが今日、曲がりなりにも立って居られるのは、親であったり妻であったり、親族であったり友人であったりといった様々な人達が、Ozzy-ZOWを承認してくれていると信じられる、承認されているという自信と安心感に依るところが大きい。
 
互いに、頼ったり頼られたりしても良いのだという安心。
 
彼等・彼女等が、自分を頼ってくれる事があり、それに(自分の及ぶ範囲で、という条件付きで)ある程度答える事ができるという自信。
 
また、ささやかであっても、自分が彼等の役に立てているという自信。
 
彼等、彼女等に疎まれたり憐れまれたりしてはいないであろうと確信でき、楽観できる安心
 
Ozzy-ZOWの場合、幸福感の背骨たる自己肯定感の中身はこういったものである。
この、自分自身に対する肯定感。良いセルフイメージを持てている事。
Ozzy-ZOWの周囲の人々がOzzy-ZOWに与えてくれたこのギフトが、Ozzy-ZOWの幸福の源泉である。
 
これはあくまでOzzy-ZOWの場合、であり、自己肯定感を得られるモノ・コト・ヒトは、人それぞれであるかと思う。
トリガが何であるかにかかわらず、「肯定感」が得られている事が重要だ。
そして「肯定感」は、あくまで「感」であり、「そう感じる・思える」という点がコアであり、形があって手に取れるようなものではない。
そんな無形の、常に揺らぎに晒されている感情の産物こそ「幸福」の正体である。
 
 
セルフイメージの重要性
 
くどいようだが、上記したように、「幸福」とは、「自分は幸福である」というイメージの産物であり、自身を「幸福に足る存在である」と肯定できるところにある。
そう、あくまでイメージの産物だ。
だが、このイメージを持つ/持ち続けるというのは、それなりに難しいものであることは、このエントリをお読みの皆様も容易に想像できるのではないだろうか。
或いは、実際にその難しさに直面された方も多いかもしれない。
 
自己啓発系の書籍などでも、自分の意識を変える、セルフイメージを変える事を推奨するものは多く、その考え方自体は間違ってはいないとOzzy-ZOWも思う。
だがしかし、セルフイメージの切り替えは、書籍で読む程簡単なものではない。
無論、その手の書籍の中でもセルフイメージの再構築の難しさは語られはするが、Ozzy-ZOWがここで言う「難しさ」は、
 
『個人の力のみでは不可能』
 
という意味でのものである。
自己啓発系書籍の罪は、様々な意識改革やセルフイメージの再構築を、さも「読者自身の独力で」行えるかのように語る点にある。
 
あなたがこの世に生を受けて以来の何年、十何年、何十年の積み重ねがあなただ。
そのあなた自身に対するイメージを、たかだか数日、数ヶ月レベルで塗り替えるなどということは、かなり難易度の高いミッションだ。
まして自分一人の力でなど、ほぼ不可能と言わざるをえない。
年単位の時間を掛け、自分自身のイメージに鍍金をかけたとしても、ふとした時に鍍金は剥げ落ち、元の木阿弥となる。
地金が錫であれ銅であれ白金であれ、自身が自身の地金そのものを認め、愛するのみならず、更に他者からも鍍金のかかっていない自分自身を認め、リスペクトして貰うことが必要だ。
ディズニー作品、”美女と野獣” のプロセスは、アニメの中だけでなく現実世界でも同様に重要なプロセスなのだ。
 
 
承認の不足が低階層への固定を招く
 
Ozzy-ZOWの僥倖は、まさにここにあった。
 
愛情と人間的豊かさを持つ両親により、Ozzy-ZOWは充分な承認を与えられながら育った。
友人達からも、豊かな精神的なギフトを与えて貰っている。
親友であり恋人である妻は、精神的な支えでもある。
 
この各方面からの無形のギフトによって、Ozzy-ZOWは幸福に日々を過ごせている。
どうやって返したら良いかわからない程に、Ozzy-ZOWは与えられている。
 
Ozzy-ZOWは、自分が自分の独力のみで今此処に立てているなどとは、露ほども思っていない。
Ozzy-ZOWの周りの様々な人々のサポートなくして、Ozzy-ZOWは一瞬たりとも存在し得ない。
 
人が低い階層に固定されてしまうのは、それらサポートが得られない為である場合が、とても多いのではないかと考える。
もとよりそういった温かな人間関係に恵まれなかったのだとしたら、それは不幸としか言い様がない。
なんとかもがいて足掻いて、持てる者が当然のように持っているモノを、血塗れになりながら手に入れていくしか無い。
 
だが、”持たざる者” であり、”得んとする” のであれば、腐ることなく
 
”得たい”、”欲しい”
 
と願うなら、是非覚えておいてほしいのが、前章で記した ”美女と野獣” プロセスである。
 
自身を認め、愛すること。
 
それを先ず行わねばならない。
自分を愛せない者には、他者を愛せない。
言い古された言葉だが、これは、自分の事で手一杯の状態では、他者を愛するような余裕がない、相手が望む愛し方を検証する余裕がない、ということである。
 
Ozzy-ZOWが師と仰ぐ、マーティン・ルーサー・キング牧師は、「汝の敵を愛せよ」と言った。だが、Ozzy-ZOWは「汝自身を最も愛せよ」と言う。
それこそが、より豊かな愛情や親切を与える為の苗床なのだから。