サマルトリアへの道

サマルトリアの王子のように生きていく。

『親権』は子供を幸せにするの?

どうしてもやるせなくて仕方ないので書く。

これはただの排泄行為だ。故に、読みたくない方は直ちに回れ右されることを推奨する。

 

今朝、通勤電車で乗り込んできた母親&子3人の母親が酷すぎて気分が悪くなった。

機嫌という意味でなく、文字通り具合が悪くなるという意味で。

その母親は、長男にばかり集中砲火のように罵詈雑言を浴びせていた。

その子の一挙手一投足に対し、よくもそこまでバリエーションをつけた罵り方を、せいぜい3歳位の小さな子供に浴びせられるものだ……

 

その子は母親の吐く言葉に、泣くでもなく怒るでもなく、ただただ黙っていた。

怯えすら超越した諦観が、つぶらな瞳には浮かんでいた。

その子の鈍い反応に、母親の罵りはどんどんエスカレートしていく。

こんな小さな子が、心を鈍磨させることで自分を守らねばならないなんて……

 

席が空いたのに座らなかったから取られた→お前は「どんくさい」。

食い物を私の服につけるな→「バカ!」。

 

そんな小さな子に、大人の……いや、アンタの都合を押し付けるなよ。

 

おたくにとってそれは「しつけ」なのかな?

でもね、毎日毎日、そんな言葉ばかり浴びせられたらね、その子、自分を愛せなくなってしまうよ。

自己肯定感が低い人間は、自分が幸せになれないばかりか周囲も巻き込んで不幸を撒き散らすようになる事もある。

親ってぇのは大変だ。人を育てるんだから、大変に決まってる。

僕は「親」にはなれなかった。

望んだけど叶わなかった。

僕には子育ての経験はない。だから、子育ての大変さは想像しかできない。

他所様の子育てにとやかく言える立場にはないのかもしれない。

 

だけど、「人がどう感じるか」はわかる。

溺れるほどの自分を否定する言葉に日常的に晒されて、人は正気でいられるものではない。ほんの10分程、自分に向けられたのでない悪意でさえ、僕は心の調子を崩しかけた。

あの子の痛みは、どれほどのものだろう……

 

この国は親権が強い。とても強い。

死ぬ一歩手前の虐待が行われて施設に入所したとしても、反省したと見做されれば親のもとに戻されてしまう。

里親になるのがこれほど難しい国も、他にないのではないだろうか。

どんな親でもいないよりマシ、という人もいる。

本当にそうか?

「家族」になる方法が、親に恵まれるか自分で産むかしかないというのはどうなんだろう?

血縁が無意味とは言わない。けれど、必要以上に血縁が重視されすぎじゃないか?

 

介入すべきタイミングで児相が介入→里親とのマッチングという方法が、あってもいいのではないか?

「親権」という親の権利は大切かもしれないが、一番大切なのは、子供が当たり前に幸せに、心も体もちゃんと庇護されて生活できることじゃないのか?

 

ああ…….gdgdとくだらなくて申し訳ない……今日はもうやめます。

 

ヲトコノホントノトコ。

注:

本稿は、ヘテロセクシャルの女性に対し、好ましいと感じる男子に、「女としての価値をより高いものと認識して欲しい」場合のみを想定している。

同性ウケや、御婦人方の考える「女子力」等は全く想定していないので、そのあたりのツッコミはご遠慮願いたい。

あくまで「男は女の何を見ているか」のお話である。

注2:

本稿では、「中身」には一切触れない。この手の話は最終的に「中身の良い美人と中身の良い不美人ならうんたら」という議論になってしまいがちだが、そこは全て

「ご縁」と「相性」

である。

「いいひと」でも「合う」とは限らないし、不美人の心が美しく、美人の心が美しくないということもないし、逆もまた然り。普段口にするタイプとはまるで違うタイプの人と番うパターンなどは、むしろ多数派であるので、議論自体が不毛であるからだ。

注3:

ジェンダー系の論客とやりあう気はない。

僕は基本ジェンダー・フリーを標榜しているけれど、本稿はその信条に反するような記述も存在する。

最大公約数の”日本人のオトコ”の本音(であろう事)を、僕というフィルタを通して語ってみたものであり、理性よりも下層のレイヤで、オトコが何を考えているかのサンプルの一つとして笑覧頂ければ幸いだ。

喪男の常套句として、「※」がある。

略さず表記すると

「※ただしイケメンに限る

なワケだが、必ずしもそうではないことは、一歩街に出れば判る。

必ずしも容姿が整っていたり、背が高かったりする男だけが、番う相手に出会えているワケではない。

寧ろ御婦人方の方が、番う相手を見つける際、条件として容姿の占める割合が多いと感じているように思われるし、実際、男の一人として自らを顧みるに、やはり視覚情報は、番を見つけるにあたり、男にとって大きなファクターであることは、認めざるをえない。

しかし、だ。

実のところ、御婦人方が思うほど、男は女を見ていない。

より正確に言うならば、御婦人方が想定しているポイントと、実際に男が見ているポイントには、絶望的なまでにズレがある。

問1:結局顔かおっぱいでしょ?

おっぱいは重要である。

ただ、世の男の全てが巨乳好きなわけではない。

貧乳好きもいれば、普乳がイチバンという者もあり、大きさ・形・色等々、細かい好みを集めたなら、現代用語の基礎知識位の厚みにはなりそうな程に、男の「おっぱい」へのこだわりは強い。

…が、それはあくまでファンタジーとしてのソレでしかなかったりするのだ。

二次元キャラのような乳も、まぁ実在しないことはないのだろうが、とはいえそんな乳主は世に数%もおるまい。

そんなことは、バカな男とて百も承知。

実は、大切なのは

「落差」

なのだ。

ウエストの括れとの落差、それにより描かれる曲線に、「女」を感じる。

谷間を強調したり、胸元を開ける必要も、全くない。

少なくとも、「一人の女として」見られたいなら、むしろやめておいた方がいい。

男の中には

「人間の男」の部分と「動物のオス」の部分がある。

「愛しい・可愛い」と「やりてー!」が、一人の男の中に混雑している。

前述したおっぱいへのこだわりなどは、寧ろ後者の部分に近い感覚だと思う。

そして、「一人の人間として愛している女」と性的関係を結ぶことはあっても、「エロい!パツイチお願いしたい!」と思うチャンネーと、「ともに人生を歩みたい」と思うことは、ないとは言わないが、ほぼ皆無と言っていい。

露出されていればそりゃ目はいくが、その視線はエロモードの視線でしかない。

無闇に露出などせずとも、「アウトな容姿」でさえなければ、男は勝手に女に色気を感じてくれるものなので、敢えて見せずともよい。

「アウトな容姿とは?」:

これはもう「清潔感がない」ことに尽きる。

更に具体的にいえば

「髪と肌が適切に手入れされていない」

状態である。

逆に言えば、髪と肌が適切に手入れされていれば、「アウトな容姿」のレベルはやすやすとクリアできる。

汚肌の美人と美肌の微人(微妙な容姿の御婦人)なら、後者の方に軍配があがる。

裏技として、「ナチュラルメイクという名の厚化粧」での対応策もあり得るが、メッキが剥がれた後を考えるなら、睡眠と栄養をしっかり取って、頭皮を含む肌と髪の健康を第一にする方が良い。

誰かの本命になりたい、本命であり続けたいならば、コストパフォーマンスの面でもそちらをお勧めする。

問2:でも天然美人>人工美人>天然不美人でしょ?

否定はできない。

「目を引かれる」という意味では全くもってその通りだし、スタートの段階では、容姿レベルの高さはプラスになり得る。

ただし、このアドバンテージの効果はもって数日(数回)、短ければ数時間である。

目は行く。これはもう否定できないが、そこから「お付き合う」のは、また別のお話。

容姿レベルが並〜残念だとしても、追いついて、あっさり抜き去ることなど造作もないことだ。

容姿に勝る相手に勝つ方法は

「相手に奉仕させる」

ことである。

逆ではない。

あなたが奉仕するのではなく「させる」のである。

女王様になれと言うのではない。

細々とした、なんでもないような頼み事を、相手に依頼するのである。

お付き合う前の段階では、甘いニュアンスを含ませる必要はない。

むしろマイナスだ。相手が「女慣れ」しているタイプであれば、ウザがられるか、看破された後おいしく戴かれて捨てられるのがオチだし、逆の場合は相手をむやみに緊張させ、グルグルと思考ループに陥らせる。

たとえ相手があなたに好意を持っていたとしても、彼はあなたと距離を置きたがり始める。

コミュ障系男子にとっては、相手の好意というプラスの状況でさえ、どう対処したら良いか解らない恐怖の状況にしかならない。

気安い感じが良い。

意図した色気など盛り込む必要は、一切ない。

ただ大切なのは、前項にて述べた

「清潔感」

である。

男とは違うタイプの清潔感は、男にとってはほんのり「女」を意識させるもの。

釣り上げるまてまは、それで充分。

ガンガン頼り、やってもらい、一々「ありがとう」という。

あなたが側にいることを、既定のこととする。

居ることが自然で、色々頼まれるけど苦ではないし、解決してあげると喜んでもらえて、ちょっといい気分。

鬱陶しくなくて、居心地もいい。

…まぁ、そう上手く全てが運ぶとは限らないが(^_^;)

話が大分逸れたが、

天然美人>人工美人>天然不美人(微人)

は確かに原則的には正しい。

しかし案外簡単にひっくり返せるし、ビックリするほど男は女の細部を見ていない。

それは、美容院に行った後の夫や恋人や男友達の反応を見ればご理解頂けると思う。

ところが男は

髪がきれい、肌がきれい、歯がきれい、手がきれい

というトコロは、案外見ている。

髪型の変化には鈍感でも、その手入れの度合いは、驚く程良くみている。

フケや頭皮の荒れ、肌荒れや毛穴の開き、ファンデのムラや浮き、ムダ毛等々。

基本気をつける、ケアをする、という方法しかとりようがない部分。

ここは、天然不美人が整形やメイクで人工美人にクラスチェンジしても、最低限おさえておかなければ台無しになる部分だ。

逆に、ここをおさえておけば後はどうとでもできる。

オトコは基本ヘタレ:

天然美人>人工美人>天然微人

の流れが

天然美人<人工美人<天然微人

あるいは

天然美人<天然微人<人工美人

になることが特殊な事例ではない理由として、

「大体のオトコはヘタレ」

であるというコトが挙げられる。

ハッキリ言ってしまうと、レベルの高すぎる美人には気後れしてしまい、一緒にいて居心地の悪さを感じる男は多い。

男内(但し日本限定)でのドジっ娘や天然の人気は高いが、結局のところ根底にはそのヘタレな感覚があるのではないかと思う。

手に入らなそうで、手に入れたところでリラックスできなそうで、維持するのにコスト(精神的なものも含む)がかかりそうな美人より、手に入りそうで、気疲れしなそうで、ランニングコストが安価で負担の少なそうな微人の方が、安心感がある。

非常に消極的かつ情けなく、当のご婦人方からは、「そんな理由かよ!」とお怒りを受けそうだが、実際のトコロ、ご婦人方が思う以上にオトコという生き物は

ヘタレ

なのだ。

それを理解せずにコトに当たるのと、理解した上で行動するのとでは、心構えはだいぶ違ってくる。

「大人の男」はファンタジー:

「大人の男」などという生き物は、ファンタジーの中にしか存在しない。

”獣耳の人外巨乳ロリババア” みたいな二次元キャラくらい、あり得ない存在だ。

なぜなら、オトコという生き物は、14〜16歳で情緒の成長が止まる。

我々オトコは、一生を「中学◯◯年生」のような状態で生きていくのだ。

無論、年令を重ねるにつれ、リアル中学生時代とは興味の対象は変わってはいくが、基本的なメンタリティは、いつまでも中学生レベルなのだ。

中学生に大人の対応を求めるのは、無理がある。

相手が未成熟かつ面倒くさい存在であることを踏まえた上で、掌の上で転がしてやった方が、諸々上手くいく。

僕は、男女関係は絶対「女の方が一枚も二枚も上手」のほうが上手くいくと思っている。

とはいえ、落とし穴もある。

女性側が大人になることは必要だが、「オカン」になってはダメ。

リアルオカンなら、親子だから仕方ない部分もあれど、恋愛・結婚関係において、「セックス付のオカン」になってしまうことは、もう女性側にはデメリットしかない。

基本、オトコという生き物はものぐさで言い訳がましい生き物だ。

しかし、それでいて

”庇護欲”

という承認欲求の一種を持ってもいる。

先に述べた「奉仕させる」というのは、主にココを刺激するのだ。

憎からず思っている女子から、彼女にとっては手間だが自分にとっては造作ないタイプの頼まれごとに当たる(このレベルの頼み事に収めるのが重要)際、

「しょうがないなぁ、もう…」

と言いつつ内心は

「しょうがないなぁ〜、もー(*´∀`*)♪」

という感じなのである。

うまーく庇護欲を刺激してやり

「もー、このコはオレがいないとダメだしー♪」

と思わせておく。

その状態を保って飼育する。

言葉を話すペット動物位の感覚で女性側が手綱を握っている方が、諸々上手くいくと思う。

所詮ガキなので、男にいろんな事を決めさせようとすると、ロクなことにならない。

とはいえイニシアティブを握っていたがるので、上手く操縦して望む方向へ誘導する必要が生じる。

ココが面倒くさい部分であり、負担に感じるご婦人方も多いかと思うが、一旦道筋をつけてしまえば、それがそのまま既定路線となって、後々ラクになる。

間違っても、本気で全力で「頼って」はいけない。

「頼りにしてる」

「あなたがいないと困る」

と、オトコに思わせて、操縦桿を握るのが目的。

間違ってもコントロールを男に預けてはいけない。

何度でも言うが、オトコは基本ガキなので、大人である女側が、きっちり手綱を握っていなければならない。

オトコは理性的?女は感情的?:

これも昔から言われているが、全くそんなことはない。

むしろ男の方が「自分は理性的だ」と思い込んでいる分厄介なパターンもある。

しかし、それを真正面から指摘すれば、それこそ感情的に(場合によっては物理的に)あなたを攻撃し始める。

実に厄介だ…

そして危険だ…

こんなに面倒くさくて厄介で粗暴な「男」という存在を許容し、あまつさえ愛してくれさえする女という性には、感服せずにいられない。

皮肉や自虐ではなく、かなり本気でそう思う。

面倒くさいのはお互い様:

男も女も、面倒くさいのはお互い様。

しかし、あくまで僕の考えだが、全く面倒くさくない人との付き合いは、ラクではあるだろうが、楽しくはなさそうだ。

とても傷ついた直後などは、「徹底的にラクな相手がいい」と望むかもしれないが、まず、面倒くさくない男など、本当は存在しない。

面倒くささの種類が違うだけだ。

もしそんな男がいたとしても、最初はともかく恐らく直ぐに飽きる。

見極めるべきは、その相手の「面倒くささ」が、あなたが許容できる方向性かつサイズのものであるか、だ。

最後に、近付いてはいけない男の例:

卑屈な人、自己愛の足りない人は、男女問わずあなたから力を奪う。

そういう人を「救いたい」というホスピタリティを持つことは否定しないが、余程あなたがパワフルでない限り、あなたが潰される。

近づかないのが無難である

暴力・暴言(DV、モラハラ)等であなたをコントロールする人。

こちらも男女問わず「近づかないこと」が第一。

ただ、最初からそういった暴力傾向が見えているパターンは少ない為、気をつけていても捕捉されてしまうパターンは多々ある。

力で人を支配しよとする人間は、その人自身も、かつて誰かによって力で支配されていた場合も多く、情が邪魔をして離れられないケースが良く見られるが、一番大切なのは、あなた自身の心身の健康と安全だ。

「あなたでなければダメなんだ」と、相手は泣きついたりするかもしれないが、実際にあなたが去れば、かつてのあなたの様な新しい依存先を探すだろうし、仮に「あなたでなければ」が真実であったとして、それに付き合ってあげる義理は、あなたにはない。

本当に大切ならば、大切であるように扱わねばならないし、それを怠って見放されるなら、それはさすがにもう致し方のないことである。

階層の固定化の一因とは

昨年末のエントリの続き。


有り難きこと。(駄文注意) - サマルトリアへの道

 
Ozzy-ZOWの出自が底辺でありながら、現在の本邦に於いては
 
「ギリ中間層」
 
と言えなくもない位置をキープできている理由は、Ozzy-ZOWの父母の教育、あるいは彼等の生き様の影響によるものではないかという推察について。
 
Ozzy-ZOWの父母がどんな人間であったかは、前回のエントリを参照頂くとして、其れを踏まえた上でお話させて頂く。
 
「幸福」の正体
 
幸福とは何であるか?
人それぞれその定義はあろうが、共通するただ一つの要素がある、とOzzy-ZOWは考える
それは
 
「自分が幸福である」
 
と、自分自身が認識していることである。
意識しているか意識下かの違いはあろうが、自分の境遇を否定的に感じている人で、自分を「幸福だ」と言っている人間に、少なくともOzzy-ZOWは会ったことがない。
 
幸福とは詰まるところ、自らが自分自身の心身の感覚として「幸福である」と感じることが出来ている状態である。極めてパーソナルかつ感覚的な代物であり、外的な条件や金品等々は、あくまでも幸福感を得る為の要素でしかない、と言える。
あくまで、「自分の感覚」こそが「幸福」の主たる要件であるとOzzy-ZOWは考える。
不幸なミリオネアも幸福なホームレスも存在し得るのがこの世界だ。
更に突き詰めるならば、それは
 
「自己を肯定できるか否か」
 
ということであり、Ozzy-ZOWは、自らの定めるこの基準に於いて、自分を「幸せだ」と感じる。
 
Ozzy-ZOWも、ナチュラルボーンにそのような肯定感を持てるようになった訳ではない。
それに、未だにその肯定感を手放してしまいそうになる瞬間が、ない訳でもない。
然し、概ね平穏かつ安定して幸福感を維持できているのは、「自己肯定感」を補強・修復してくれる環境に恵まれていることに尽きる。
Ozzy-ZOWは、単騎では実に脆弱極まる駒である。
一応は社会の歯車の体をなしてはいるが、一昔前の中華製品並の低品質かつ雑な仕上げを誇る三級品であるし、出来ることなら可能な限り賃労働に従事する時間を短くしたいと考える不届きな歯車である。
安定稼働の為により多くのメンタルパワーを必要とするし、逆境にすこぶる弱い。
Ozzy-ZOWが今日、曲がりなりにも立って居られるのは、親であったり妻であったり、親族であったり友人であったりといった様々な人達が、Ozzy-ZOWを承認してくれていると信じられる、承認されているという自信と安心感に依るところが大きい。
 
互いに、頼ったり頼られたりしても良いのだという安心。
 
彼等・彼女等が、自分を頼ってくれる事があり、それに(自分の及ぶ範囲で、という条件付きで)ある程度答える事ができるという自信。
 
また、ささやかであっても、自分が彼等の役に立てているという自信。
 
彼等、彼女等に疎まれたり憐れまれたりしてはいないであろうと確信でき、楽観できる安心
 
Ozzy-ZOWの場合、幸福感の背骨たる自己肯定感の中身はこういったものである。
この、自分自身に対する肯定感。良いセルフイメージを持てている事。
Ozzy-ZOWの周囲の人々がOzzy-ZOWに与えてくれたこのギフトが、Ozzy-ZOWの幸福の源泉である。
 
これはあくまでOzzy-ZOWの場合、であり、自己肯定感を得られるモノ・コト・ヒトは、人それぞれであるかと思う。
トリガが何であるかにかかわらず、「肯定感」が得られている事が重要だ。
そして「肯定感」は、あくまで「感」であり、「そう感じる・思える」という点がコアであり、形があって手に取れるようなものではない。
そんな無形の、常に揺らぎに晒されている感情の産物こそ「幸福」の正体である。
 
 
セルフイメージの重要性
 
くどいようだが、上記したように、「幸福」とは、「自分は幸福である」というイメージの産物であり、自身を「幸福に足る存在である」と肯定できるところにある。
そう、あくまでイメージの産物だ。
だが、このイメージを持つ/持ち続けるというのは、それなりに難しいものであることは、このエントリをお読みの皆様も容易に想像できるのではないだろうか。
或いは、実際にその難しさに直面された方も多いかもしれない。
 
自己啓発系の書籍などでも、自分の意識を変える、セルフイメージを変える事を推奨するものは多く、その考え方自体は間違ってはいないとOzzy-ZOWも思う。
だがしかし、セルフイメージの切り替えは、書籍で読む程簡単なものではない。
無論、その手の書籍の中でもセルフイメージの再構築の難しさは語られはするが、Ozzy-ZOWがここで言う「難しさ」は、
 
『個人の力のみでは不可能』
 
という意味でのものである。
自己啓発系書籍の罪は、様々な意識改革やセルフイメージの再構築を、さも「読者自身の独力で」行えるかのように語る点にある。
 
あなたがこの世に生を受けて以来の何年、十何年、何十年の積み重ねがあなただ。
そのあなた自身に対するイメージを、たかだか数日、数ヶ月レベルで塗り替えるなどということは、かなり難易度の高いミッションだ。
まして自分一人の力でなど、ほぼ不可能と言わざるをえない。
年単位の時間を掛け、自分自身のイメージに鍍金をかけたとしても、ふとした時に鍍金は剥げ落ち、元の木阿弥となる。
地金が錫であれ銅であれ白金であれ、自身が自身の地金そのものを認め、愛するのみならず、更に他者からも鍍金のかかっていない自分自身を認め、リスペクトして貰うことが必要だ。
ディズニー作品、”美女と野獣” のプロセスは、アニメの中だけでなく現実世界でも同様に重要なプロセスなのだ。
 
 
承認の不足が低階層への固定を招く
 
Ozzy-ZOWの僥倖は、まさにここにあった。
 
愛情と人間的豊かさを持つ両親により、Ozzy-ZOWは充分な承認を与えられながら育った。
友人達からも、豊かな精神的なギフトを与えて貰っている。
親友であり恋人である妻は、精神的な支えでもある。
 
この各方面からの無形のギフトによって、Ozzy-ZOWは幸福に日々を過ごせている。
どうやって返したら良いかわからない程に、Ozzy-ZOWは与えられている。
 
Ozzy-ZOWは、自分が自分の独力のみで今此処に立てているなどとは、露ほども思っていない。
Ozzy-ZOWの周りの様々な人々のサポートなくして、Ozzy-ZOWは一瞬たりとも存在し得ない。
 
人が低い階層に固定されてしまうのは、それらサポートが得られない為である場合が、とても多いのではないかと考える。
もとよりそういった温かな人間関係に恵まれなかったのだとしたら、それは不幸としか言い様がない。
なんとかもがいて足掻いて、持てる者が当然のように持っているモノを、血塗れになりながら手に入れていくしか無い。
 
だが、”持たざる者” であり、”得んとする” のであれば、腐ることなく
 
”得たい”、”欲しい”
 
と願うなら、是非覚えておいてほしいのが、前章で記した ”美女と野獣” プロセスである。
 
自身を認め、愛すること。
 
それを先ず行わねばならない。
自分を愛せない者には、他者を愛せない。
言い古された言葉だが、これは、自分の事で手一杯の状態では、他者を愛するような余裕がない、相手が望む愛し方を検証する余裕がない、ということである。
 
Ozzy-ZOWが師と仰ぐ、マーティン・ルーサー・キング牧師は、「汝の敵を愛せよ」と言った。だが、Ozzy-ZOWは「汝自身を最も愛せよ」と言う。
それこそが、より豊かな愛情や親切を与える為の苗床なのだから。

有り難きこと。(駄文注意)

2014年が過ぎようとしている。

不惑を過ぎ、今年はJラップのミュージシャン並に各方面への感謝の念を禁じ得ない一年だった。

 

さしたる人生ではない。

面白おかしい訳でも、劇的でもない。

熱血でも鉄血でも冷血でも吸血鬼でもない。吹けば飛ぶような、ただの底辺のおっさんの塵芥の人生だ。

 

然し乍ら、しみじみと。我が身の幸運に感謝せずには居られない。

 

Ozzy-ZOWは、底辺生まれの底辺育ちである。

住所不定・職業不詳の父と、ごく普通の田舎娘の母との間に生まれ、定住生活可能となった後も、月の半分は電気なりガスなり水道なりなにがしかが止まるという、半サバイバル状態の生活がOzzy-ZOWが高校を卒業するあたりまで続いた。

 生まれも育ちも底辺だったOzzy-ZOWにとって、現在の自分に与えられた職業・属性・立ち位置は、時に「身に余る」とすら感じるレベルである。

 

唐突だが、Ozzy-ZOWは高卒である。

正確には大学中退だが、2ヶ月しか籍を置かなかったので、大学生としての経験は、ほぼほぼない。

また、Ozzy-ZOWの母校である高校(学校統廃合で廃校となったが)は、短ラン+ボンタンや長ラン+ドカンのビー・バップ・ピープルが跋扈するヒャッハー系高校だった。更に其処へ、バブルの最後っ屁の渋カジ・チーマー系の革ジャン・ベルボトム・エンジニアブーツの一派とダンス&ラップ系の渋谷系(音楽的な意味で)、女子はソバージュにボディコン、教室なのに、女教師でもないのにハイヒール、シャネルのNo.5にバッグもシャネルと、現代なら水商売のおねいさんにしか見えない一派と、やはりヤンキー系の、別な意味で一派。ごくごく一部の地味系と、カオスな様相であった。

 

・生徒会長がタバコ停学3回で退学になり、年2回生徒会長が変わる

・トイレの大のドアが全部壊れているので、ウ◯コしたい時は職員室横

 のトイレに行くしかない。

・トイレからタバコと有機溶剤とそれ以外の何かの薬物っぽい臭いがする

 

...といった具合に、その底辺ぶりには定評のある公立高校がOzzy-ZOWの母校である。

 

そんな、実に残念な高校が最終学歴であるOzzy-ZOWが、曲がりなりにも正社員ホワイトカラー職として、世界のギーク・ナード・OTAKUが憧れる秋葉原で働いている。

職場の人間関係も、顧客の質も、商売自体も良好だ。

 

二次ヲタなのに、そんな自分を必要とし、愛してくれる人と出会うことが出来、妻帯という贅沢を享受している。

 

友人・知人・家族に恵まれ、何かと助けて貰えたり、気にかけて貰えている。

 

「いいのだろうか?」

 

と、時に不安になる。

自分は、恵まれ過ぎてはいまいか、と。

勿論、Ozzy-ZOW以上に恵まれた境遇の者など数多存在することは認識しており、Ozzy-ZOWの捕捉できる範囲にもそういった1%側の者が存在する。

そして本来Ozzy-ZOWは、99%の側の人間なのだ。

 

もっと評価されるべき誰か

もっと愛されるべき誰か

もっとラクな生き方をしていいはずの誰か

 

そんな誰かが、本来享受すべき筈の果実が、Ozzy-ZOWの人生に誤配されているのではないか。何時か、本来の受取人から「返せ」と迫られる日が来るのではないか、と怯える気持ちが、常にある。

 

Ozzy-ZOWの僥倖は、善き両親の元に生まれ落ちたことが端緒である。

これは、間違いのないことだ。

先述したように、Ozzy-ZOWの父は一般的な「父親」規範から考えれば、全くとんでもない男であった。

とにかく、一度としてまともに家に金を入れたことがなかった。

金が入れば酒を呑み、周りに振る舞って回る。

結果、Ozzy-ZOW 家は借金に塗れ、それは父が糖尿で倒れた後に発覚した。

 

これだけを見れば、酷い父親だ。

が、親父殿は非常に子煩悩な男だった。

特に食に関しては、ガスストーブをつけっぱなしでも換気の必要がない程の隙間だらけの風呂なしボロアパートに住まいながらも、決して妥協がなかった。

一口しかないガスコンロで、殻付きの海老を砕き、スープ(今思えばビスクのようなものであった)を作ってくれたり、ガスが止まって煮炊きができない中、ホットプレートで松阪牛のすき焼きを食べた事もあった。

一般的な感覚であれば、順番が真逆であろう。

食以外の部分でも、とにかく「実地の経験」を重んじた。

高校1年の三者面談のその足で、花月園の競輪場に連れて行かれたこともあった。(学ランの下にGパンとTシャツを仕込んでいた)

金以外の様々なギフトを、親父殿はOzzy-ZOWに与えてくれた。

過剰に空気を読み過ぎ、こじんまりと纏まりがちな息子を、その破茶滅茶な生き様を見せることで、

 

「もっと自由に生きていいのだ」

「生き方に、正解などないのだ」

 

と教えてくれたのだ。

 

Ozzy-ZOWの母もまた、上記のような生活環境の中、息子の教育に金を惜しまぬ人だった。

「惜しまぬ」といっても、そこは貧乏人のそれであるので、惜しみなくジャバジャバとつぎ込むレベルの話ではないが、限られた金銭リソースを、居住環境のアップデートに費やすのではなく、人間そのもののアップデートに回した人だ。

上記のような生活の中、Ozzy-ZOWはギター教室と英会話に通っていた。

特に英会話は小4〜高1までの長期に渡り、そこに集う他の生徒たちは、今思えば富裕層に属する子女達で、貧乏人はOzzy-ZOW一人であった。

 

英会話もギターも、中学〜20代前半までのOzzy-ZOWのプライドの拠り所となってくれた。

ギターが若干弾けることと、ネイティブとも日常会話程度の英語が話せることは、強者から見れば蟷螂の斧レベルであったにせよ、当人にとってはエクスカリバーであり、グングニルであった。

残念ながら、現在はどちらも錆びついてしまったが、英語に関しては、2週間程英語漬けの生活をすればカンが戻る自信はある。

だが、母がこの2つの習い事を通してOzzy-ZOWに贈ってくれたギフトは、スキルそのものではなく

 

「私はお金はないが豊かだ」

という謎の視点だった。

 

父の自由さと、母による豊かなギフトのお陰で、あんな生活をしながらOzzy-ZOWは一切自らを「貧しい」とおもった事がなかった。

思春期以降、自意識と童貞を拗らせ、自らを不当に卑下したことはあったが、「貧乏」故に可能性が狭められていると考えたことは、一度もなかった。

金銭的には貧しいのに、貧しさを感じることがなかった。

このことは、Ozzy-ZOWの人生に大きな大きな影響を与えた。

 

Ozzy-ZOWが現在の生活を享受できている理由は、案外この両親のギフトによるのではないかと、最近考えるようになった。

 

長くなったので、その件については後日、気が向いたらという事で。

“底辺婚のススメ”

ケッコンカッコガチ。

けっこんした。

不惑にして、遂に所帯を持つこととなった。

びっくりするほどキャッシュレスかつローンキングという、実にノーフューチャーなOzzyZOWを選ぶあたり、妻もかなりのギャンブラーだと思う。

OzzyZOWの収入は、大卒初任給に産毛が生えた程度のものなのだが、とはいえ相対的貧困の域までの薄給でもなく、火の点いた回し車の中で全力で駆けるハムスターの如き様相ながら、どうにか生活を回せている。

 

......平時であれば。

 

そう、「回せている」といえるのは、平時に限る話なのだ。

OzzyZOWのみならず、この国の貧民のほぼ全てがそうであろうと確信するが、現代の本邦に於いてさえ、貧民生活は基本的にハンド・トゥ・マウスだ。

食うや食わずというレベルではないにせよ、収入はほぼ全て使い切る。下手をすれば足りない。

といったタイトロープな生活の中で、最も恐るべき事が突発的イベントである。

 

即ち、冠婚葬祭。

即ち、盆暮れ正月。

 

こういった際に貧民は困る。

結婚する友人親戚に包む数万

お悔やみの香典代数万

親戚のクソガキ共に渡すお年玉数万

 

たかだかその程度の出費が生活に致命的な影響を及ぼすのが貧民の貧民たる所以であり、この「タメ」のなさこそが、多くの日本の貧民の抱える

「喰えなくはないが、ほんのり貧しい」

感じの正体かと思う。


相互扶助装置としての夫婦・家族

「家族計画」というゲームをご存知だろうか?

前に「明るい」はつかない。

初出はPC用の18禁ゲームであったが、コンシューマにも移植された。

家族計画~心の絆~:Amazon.co.jp:ゲーム

内容については、Wiki等を参照頂きたい。

OzzyZOWは常々、家族、或いは夫婦とは“食い詰め防止装置”であると感じている。

一人では、生きるにあたり自分自身のリソースのみに頼るしかないが、家族ないし配偶者がいることで、自分以外の人間のリソースを借りることができる。


無論、家族との折り合いの良い人間ばかりではないし、坂爪圭吾氏のように、見ず知らずの人からの助けを得る人もいる。

OzzyZOWは評価経済社会の到来を信じているので、坂爪氏にはリスペクトを禁じ得ないのだが、少なくとも現段階で、万人が坂爪氏レベルまで突き抜けるのは難しいのではとも感じる。


そこで「ケッコン」である。

先に紹介した「家族計画」の台詞にもあるが、この国は“家族”という形態に、最も有利な仕組みになっている。


実際に結婚してみて感じたが、

配偶者控除配偶者特別控除のメリットは計り知れない。

これらは、我々のような底辺にこそ有用な仕組みであると思う。

年収600万超の、旦那の稼ぎだけで左団扇の専業主婦家庭や、特に生活に困ってではないパート主婦家庭には、「お得」という話でしかないが、日々タイトロープな我々底辺にとって、固定費の圧縮は死活問題だ。

徴税という大きな生活コストを下げられるメリットは、実に大きい。


年収240万のあなたと年収100万のあなたが力を合わせれば、340万の生活となる。

これは、“平均年収”という名の実在しない年収額には届かないが、実質的なマスの個人年収のボリュームゾーンは、恐らくこの辺りであろう。

340万の個人年収と340万の世帯年収では雲泥の差であることは百も承知だ。

しかし、可処分所得が増え、税が減るメリットを、透けるほどに薄い(本当に驚く程薄いのだ)紙一枚で享受できるのだ。

被雇用者であることが前提ではあるが…


無論、好き合う者同士の結婚が理想ではあるが、信頼関係の形を恋や愛のみとする必要もないと思う。

相互扶助(経済的・精神的両面の)を主目的とした結婚、というのも、アリでは?



今更「承認欲求」のこと。〜マダム・イン・ニューヨーク感想〜

久々にカレンダー通り休める三連休初日、以前から気になっていた「マダム・イン・ニューヨーク」を銀座に見に行ってきた。

結論から言うと、実に良い作品だった。

不惑を過ぎ、涙腺が年々緩みっぱなしである為、映像作品を見ての落涙は結構頻繁ではあるのだが、こんなに爽やかな涙を流したのは、久しぶりだ。

 

ズバリ言う。

マダム・イン・ニューヨーク」のテーマは「承認欲求」である。

 

ヒロインのシャシは「英語が喋れない」ことにより、夫のみならず子供にまでバカにされる有様だ。

お菓子作りの腕はプロレベルだが、彼女自身への家族の評価はどこまでも低い。

 

女性の地位が相対的に低くなりがちなヒンドゥーの社会ではあるが、シャシは虐げられていたり奴隷的に家族に尽くすことを強要されている訳ではなく、裕福な家の主婦として、金銭的な苦労はなく、一応は人間的に扱われ、基本的な人間の尊厳が損なわれるレベルのモラル・ハラスメントが家庭内にある訳でもない。

 

だが...

いや、だからこそ、彼女が家族から放たれる、何の気無しの言葉に心を疼かせる姿に強い共感を覚えるのだ。

 

生命や飢えの危機がある訳ではない、経済的な不安もない。

しかし、一人の人間として正当に認識されていない。自分という現象が正しく観測されていない事が、ボディーブローのようにじわりじわりと、心に重い痛みを蓄積させていく。

 

・私が私である事を受け入れて欲しい

・私が私の持てる能力と才覚と技術で行ったことを賞賛して欲しい。

・私という現象を発見して(更に、できれば好きになって)欲しい。

 

「承認欲求」とは、大きく分けてこの3つに分けられるものと考える。

それらは仮に認められ、観測されたとしても、自分にとって不本意な形であったとしたら、全く意味を為さない。

故に上記3つの承認欲求の形には、

 

「私自身が望む形で」

「私自身が望む箇所、或いは思ってもみなかったが、見つけて貰えると嬉しい箇所を」

 

という補足がつくのだ。

シャシの夫が彼女の菓子作りの技術を褒めるシーンがあるが、望む箇所は「そこじゃない」し、「そんな言い方」は望んでいないのだ。

そして、そんな心の機微を、シャシ役のシュリデヴィが丁寧に演じている。

また夫にしても子供にしても、言い方がもうホントに一々カチンとくるのだ。

本作はボリウッドムービーだけれど、こういう感情は万国共通なのかもしれない。

自分が「低く評価される」「不本意な扱いを受ける」時の、実にモヤモヤとした居心地の悪い空気が、実に丁寧に描写されている。

 

それが故、それらがしっかり回収されるエンディングの爽やかさはひとしおだ。

深く言及するとネタバレになってしまうので、詳細は是非じぶんの目でご覧頂きたい。

 

「訊く側」のリテラシー

自分自身の営業活動や、他社/他者からの営業、展示会(出展者・来場者双方の立場として)等でのやり取りを通し、お互いにとって気持ち良い提案や良い商売に繋がる方法を、自分なりに纏めてみる。

①:大原則として、相手へのリスペクトを忘れないこと。
提案を受ける立場となる場合、売り込みを受ける場合、相手の企業規模や職分、年齢に差がある時でも、丁寧な対応を忘れない。

あたりまえのようだけど、できない人が結構いて驚く。
特に団塊前後世代の自営業者に多く感じる。
大企業や官公庁に所属する人は、意外にそういう人は少なく感じる。(但し商談に漕ぎ着けるまでのハードルが高いが…)


②:相手の商品やサービスに興味を持つ。

これもあたりまえだけど、こちらが売り込みを受けての事の場合は案外難しい。


③:売り込みを受ける場合、相手の話を聞いた上で、まず最初に「相手がしてほしそうな質問」を返す。

例えば、

「屋上の緑地化が進んでいますが、これからは地下に進んでいきます」

なんてお話があった場合、

『地下ですか⁉︎ それはすごい! でも、日照の問題がありそうですが…」

のように返せば、相手は嬉々として説明を始めるだろう。
こちらが知りたいコアの質問などは、その後でいい。
とにかく気持ち良く提案してもらう。

「マイナスから逆転できてこそ優れた提案だ」

というストイックな営業マンタイプの方からすれば、ヌルいことこの上ないかもしれないが、誰もがスーパー営業マンではなく、お互い感情を持つ傷付きやすい個人なのだ。
完全アウェーの萎縮した状況では、良い提案も何もない。
興味のなかった商品が、蓋を開けたら現状解決に最適なものであるかも(勿論そうでないことが殆どだが)しれない。
そのチャンスをみすみす逃すのは得策ではない。

④:自分が好きになれない、直感的に苦手と感じる、提案している(されている)間、コントロールされていると感じる場合は、提案をしない(受けない)方向に持っていく。

大型案件だったり、提案自体はすんなり運んでいる場合、特に雇われてノルマもある場合などはなかなか難しいし、自営の場合は生活に直結するので更に難しいが、こういう場合の直感は大抵の場合外れることがなく、十中八九後々トラブルになる。
提案内容を都合良く曲解したり、次に述べるデメリット部分をきちんと聞いてくれない/説明してくれないような場合は、その後のトークは消化試合だ。
クロージングになる方向には持っていくべきではない。
提案する側の場合、方向転換は極めて難しく、発注に繋がってしまう場合もあるが、再度デメリットの説明をし、マッチングは問題ないかを再確認した上で受注とすること。
場合によっては書面やメールで「説明した事実」と責任の範囲を明確化・証拠文書化しておく。


⑤提案する場合、商品(サービス)のデメリットを必ず説明する。受ける場合は必ず訊く。デメリットを明確にしない相手は危険。
提案する側としての注意点は上記したが、提案を受ける場合は、デメリットの説明が曖昧であったりなかったりする場合は、受けるべきではない。
デメリットは「ありません」というところは論外。
どんな商材やサービスにも、メリット/デメリットの両面が必ず存在する。


以上である。

上記は勿論「原則として」というお話であり、ゴリ押しでこじ開けようとするタイプの営業やリスト総当たりでこちらの属性もわからぬまま闇雲に提案してくる電話営業等は論外だ。


書き出してみたら、あまりに普通過ぎて投稿を迷うレベルである。

ただ、自分自身を含め、実際の商談のテーブル上で、上記したような原則を守れているかというと、必ずしもできていなかったりもする。

リスト総当たり型のテレコール営業や飛び込み営業を、OzzyZOWは心底憎んでいる。
限られた範囲の、ネットリテラシーのない人々、例えばインターネットを利用しない(できない)層のコミュニティへの訴求の場合などは有効かもしれないので一概には否定しないが、打率が異常に悪く、砂金探しのようなものである。
OzzyZOW自身、過去にブラック営業会社に三ヶ月勤務し、早々に精神を病んで退職した経験がある。
その会社はメール営業禁止、テレコールと飛び込み営業のみでしつこく提案を続けて受注するタイプの営業スタイルしか認めず、マイナスを逆転しての受注や、粘りに粘って受注することが賞賛され、いかに大口でもトントン拍子の受注は低く見られるという、割とあり得ない会社だった。
先日思い立ってその会社のHPを検索したらまだ営業を続けていたので、まだ世の中にはこの手のど根性営業を心良く思う層もいるのだろう。
しかし、確実に過去のものになってきているのは言うまでもないし、そういったど根性型非効率不健康な営業スタイルに嫌悪感を抱く団塊ジュニア以降の世代が続々と経営側に回ってきている以上、早晩立ち行かなくなるだろう。

対面営業がダメだということではない。
顧客の属性をろくすっぽ調べもせず、気合と情だけに訴える方法はもう通用しないという意味だ。
また、「数打ちゃ当たる」型の営業も、否定はしない。
まず広く浅くリサーチを行うことは必要だし、それなくして見込み客の選出も難しい。
要はその段階で無闇に人的リソースを疲弊させるべきでないと言うことである。

*追記:当初、提案を受ける側としての話のみの予定であった為このようなタイトルとなったが、書き出してみると提案する側としての面も書くべきとなった為、タイトルと内容に若干の齟齬が生じてしまった。


なんだか中年リーマンの愚痴のようなエントリになってしまったなぁ…